デッサンで宇宙を知ろうとした男(その3)


slide0017_image066レオナルド・ダ・ヴィンチ「ウィトゥルウィウス的人体図」

レオナルドは「画家」を自負していましたが、絵画は彼の「表現」の一部であったとも言えます。絵画を通じて彼が求めたのは表面的な形態の模倣ではなく「物事の成り立ち、仕組み」の理解です。膨大な数の素描は対象と積極的に関わり、理解するための手段でした。
その理解の内容をいかにその時代に有用なものとして具体化するか。
レオナルドが現代に生きていたら彼の興味は間違いなく「知識のフロンティア」に向かっていたはずです。宇宙開発か人工生命か・・・まだフロンティアと認識さえされていない領域を見つけてしまうかも知れません。
彼の絵画の完成作の少なさを嘆く必要はありません。見習うべきは「結果」ではなく(失敗に終わった実験結果が多い)、どう世界と向き合ったかという「姿勢」なのですから。

デッサンで宇宙を知ろうとした男(その2)

davincidrawing_webレオナルド・ダ・ヴィンチ素描

彼の探求の足跡は膨大な素描として残されています。
 ○人体解剖  ・・・教会に一度逮捕されています。異端扱いされる危険を承知の上、命がけのアドベンチャーですね。
 ○土木や機械 ・・・しばしば自分を「エンジニア」としてパトロンに売り込んでいます。その方が「絵描き」としてよりもずっと「使えるヤツ」に思われたのでしょう。
 ○鳥の翼の研究・・・彼は真剣に空を飛ぼうとしていたことが伺えます。「天に近づこうとする」行為は、「バベルの塔」と同じく、神への挑戦と解釈できます。
 
 
ルネサンス以前、世界の成り立ちとは教会から与えられたストーリーがすべてでした。 「天地創造」「原罪」「最後の審判」・・etc、 観念の縛り付けは現代より過酷だったといえるでしょう。
教会は「同じように考え」「同じように行動し」「死におびえて教会にすがる」ように民衆を誘導(一種のマーケティングですな)して支配を続けてきました。 異端は「村八分」どころじゃない、ヘタすると処刑されたりしたのですから・・・。
 
レオナルドは 「どうやらそういうことになっているらしい」 ではなく、いま、目の前に見えているモノ・現象に向き合うことから始めました。 そしてその奥底にある自然の仕組みを理解することで何かを
「創造する」。 それこそがレオナルドの興味の対象だったのです。
それは飛行機であったり、ロボットであったり、・・・それが彼の
「表現=(理解した内容を具体化したもの)」なのです。


 

デッサンで宇宙を知ろうとした男(その1)

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)

ルネサンス当時のヨーロッパは「神中心の世界観」から「人間中心の世界観」に移ろうとしていました。それは教会支配の観念世界から、瑞々しい自然=「宇宙の美の法則」への目を向けることでありました。
その変革期のタイミングに、その現場(イタリア)に、フツーじゃない探究心を持って生まれたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチです。


レオナルドは完成作品がとっても少ないことで有名です。素描は数百枚残していますが、いわゆる本画の完成作品は10点もありません。(なのにこの揺るぎない名声!)
ひょっとすると彼は作品を完成させることにはそれほど興味を持っていなかったのかもしれません。

すると、何に彼の興味は向かっていたのでしょう?

名前のないモノ

話を「絵」にもどしましょう。

私たちの認識への「観念の侵略」はテゴワイものです。
「名前」が付いているものはすべて要注意です。実体をシンボルとして「抽出」し、「名前」を付けたことで「知っている」つもりにさせられます。
シンボルは信号のように宙に浮いていますから、これは「目」です。これは「鼻」です。と、線でくくりたくなります。

「頭」と「首」の間にはどうしても境界線が欲しい・・・
「鼻」には柱の線がないと困る・・・
「髪の毛」は線の集まりだ・・・

(すべて観念の産物、左下の写真ではそれらの線はほとんど見えません)


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世界の、「実体」のありさまは名前の有無と無関係です。
私たちが「知っている」ことは「飛び石」状で、周辺にあるものがすっぽり抜け落ちています。でも本当はそこにはにぎっしり「実体」が詰まっているのです。
世界は「名前」をもたないモノの方が圧倒的に多く、これが多様性です。

この「多様性」をどう扱うか?・・・視覚を通じて探る具体的な手段、これが デッサンなのです!


飛び石の人生


人生のイベント(出来事)からどんなことを連想しますか?

・就職する時期になった・・・「人気企業ランキングをチェック、<勝ち馬>に乗りましょう」
・クルマを買えば生活が変わるかな・・・「当社の、この車種があなたの<個性><ステータス>にピッタリです」
・デートの行き先に困った・・・「○○ウォーカーで最新情報をゲット」 結婚式は・・・「ハワイのチャペルでどうぞ」
・リタイア後は好きなことをするぞ!・・・「海外ロングステイで自分にご褒美を」
・幸せになりたい・・・「幸せになるためのお金の使い方、教えます」


考えつくこと、イメージするものにひとつでも企業の「商品カタログ」に載っていないものがあったでしょうか。

自分で選択しているつもりでも、私たちは企業が用意した選択肢(=飛び石)の上をぴょんぴょん跳ねながら生きています。
その選択肢の「周辺にあるもの」は最初から目に入っていません。
信号を見て機械的に「アカ」or「アオ」といった情報だけに反応するのと同じです。


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日常の風景(その2)

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世界で最も有名な「キャラクター」です。
商業的成功があまりにも大きいため、かの地では国を挙げて著作権の保護につとめています。
アニメで育った世代は特定のキャラクターが彼らの世界観の一部、または大部分を占めていたりします。
架空の存在にも関わらず、これを見た人は擬人化された「ある印象(=正義、健全、夢、ファンタジー、・・・)」を連想しなければなりません。


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ちょっとクラシックな例ですが「セックスシンボル」と呼ばれるものもあります。世の男性はこれを見たならすぐさま性的な内容を連想しなければなりません(でした?)。


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「OS」の操作はまさにシンボル(アイコン)がそれぞれ何を意味するかを正確に記憶して、必要な動作を命令することにあります。
MS-Wordはクリエイティブな表現という用途には絶望的に不向きですが、就職で不利とならないよう操作を覚えなければなりません。


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コンピュータが得意だと言うのは一見スマートで現代人の条件のように思われますが、決められたプログラムに従ってボタンを押しているという点ではロボットと同じです。
これらのシンボルやお約束事があなたに要求する「反応」はあなたが自分の意志で選択したことでしょうか。企業や政府などの影響力を持つ他者によってプロモートまたは強制されたものです。

素直なあなたは彼らにとって都合のいいように大量製造された「T○○○型コンシューマー」のひとりということになります。

(誤解されると困りますが、私はアナーキストではありません。)

日常の風景(その1)

観念で構成された日常はどんなものでしょう?
身の回りのレッテル、シンボルをいくつか探してみます。

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信号機:
私たちが問題にするのは「アカ(=トマレ)」か「アオ(=ワタレ)」のどちらかです。
「アカ」が意味するものは「トマレ」だけです。「気をつけて渡れよ」とか「半分だけ渡ったら」といった解釈は反社会的とされます。(点滅や黄信号もありますがこれらは「イソゲ!」ではなく「トマレ」に含まれます)
本来人間はどこでも自由に歩き回る権利を持っているはずなのに、これを無視したらはねられても文句言えない(?)ことになってます。
さらに信号機の取り付け部の構造や発光の仕組みなどはどうでもよい、いちいち気にしてられない。
求められるのは「素早く判断する」ことだけです。


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絵文字(サイン):
たとえば「トイレに行きたい!」という非常事態。問題となるのは「それがどこにあるか」であって、サインのデザインが良い悪いとか、取り付け位置がどうのこうの考えるのはその道の専門家だけでしょう。(さて、このサインをそれまでに見たことがない人はいったいどうするのでしょうか?)
求められるのはサインに従って「素早く用を足す」ことだけです。


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自動発券機:
「お腹がすいた。いつもの定食屋で・・・」
「食事をする」という行為と「お金を入れてボタンを押す」という行為が見事に関係づけられています。

これは訓練によって猿でも覚えることができますが、このシステムになじみがないフランス人(例えば、です)は食事にありつけません。
求められるのは後ろの人を苛つかせないように「素早くチケットを購入する」ことだけです。


観念とは

「観念」=「○○はこうあるものだという思い込み」のこと。
シンボルやレッテルが表すものもその中に含まれます。
私たちは成長のプロセスでどっさり観念を背負い込んでいきます。

「社会でスムーズに生きるため」適応しようと懸命に「学び」「従い」そして、いつのまにか観念の寄せ集めの世界観を作っていきます。
他人の教えるように考え方や行動を真似し、そうすれば「成功」するはずだ、と。
ところが、人間らしい文明生活を手に入れても

「ホントにこれが私の欲しかったモノだろうか?」


あまりハッピーでない自分を感じ始めます。
表面上、社会で快適に暮らすことができても観念は「心の鎖」なのです。

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勝ち組のレッテル



ステータスシンボルです。
これらから受け取る印象(=企業による刷り込み)は抵抗しがたい強さがあります。
私たちはこれらのマークから同じような内容のもの「高い、カッコいい、性能がいい・・・」をイメージし、また、これらの商品を身につけることによって他人からも「自分=高い、カッコいい・・・」と見られることを期待します。
自分にそのレッテルを貼ってくれ!と懇願する訳です。


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レッテルとは

レッテル(蘭:letter)とは
1. 商品などに貼り付ける札(ふだ)のこと。元はオランダ語。
2. 上記が転じて、人や物事に対する固定化した評価のこと。
レッテル思考とは、人・物事に対して自分が貼ったレッテル、あるいは他者によって貼られたレッテルだけで、人・物事に対する評価・判断を決めてしまう思考。人や物事の内実を知らなくても判断できると思い込んでいる思考形態。
-Wikipedia

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ワインのラベルを集めてみました。
「ビンの中身とラベルは必ず一致する」← レッテル思考ですね。
ソムリエでない私は中身をすり替えられても気づくかどうかアヤシイものです。



眼の様々

現実のモノは複雑な表情をしています。
私たちはそのいろんなカタチの実在物をシンボルに変えていきます。

なぜか。

伝達をカンタンにするためです。
「目」「鼻」という概念を誰かに伝えるときにいちいち下のようなドローイングを描いていたら面倒ですね。

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そこで絵文字や象形文字が発明され、進化を続け、
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今日私たちが使う漢字ほどにシンプルになりました。
これを見れば何が言いたいか一目で伝わるようになった訳です。

これらは文明の発達に欠かせない便利な道具です。 しかしその反面、必要のない情報(豊かな表情)は失われました。

シンボルとは

「シンボルマーク」とは

シンボル は、ある一族、会社、団体、個人などを象徴するもののこと。
家紋、紋章、ロゴマークのように特にシンボルとなる記号又は図柄のことをシンボルマークと呼ぶ。
- Wikipedia


そもそも形のないものを紙の上で表すために考案された記号や図柄のことです

「何も見ないで眼と鼻を描いてください」

と言うと、たいていの人は下のような図を描きます。
眼はアーモンド型の中にマルを描き込んだもの。
少し丁寧な人は二重マルにして自転車のスポークのようなものを入れたりもします。

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こんどは

「鏡や写真を使って眼と鼻を描いてみてください。」

できるだけ注意深く観察してやってみましょう。


お悩みですか

もし、あなたが「うまく(見たように)描けない」と悩んでるなら・・・

○理由その1・・・「手先が不器用だから」

○理由その2・・・「視力が弱いから」

いずれも不正解です。

絵画はスポーツとは異なります。
たとえば野球選手なら優れた動体視力や、体の筋力(ばね)などの身体的素質が決定的です(もちろんインテリジェンスも一流の条件だと思います)。
これに対して絵画は、自分の名前を漢字で描けるくらいの運動神経と視力があれば身体的素質という点では十分です。
視力に関しては良いに越したことはありませんが、多少ボケた視界でもそのイメージそのものがその人にとっての「リアル」な画題となります。

うまく見たままを再現できないのは、
「メンタリティ」の問題なのです。

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デッサンのススメ

なぜ人はデッサンをしたり油絵を描いたりするのでしょうか?
「本物ソックリに描きたいなら写真を引き伸ばせばいいじゃない」
そのとおりです。
たしかに「現実の複製」が欲しいならカメラやビデオがあります。
正確さにおいては手作業ではとても太刀打ちできそうにもありません。

現代のテクノロジーの便利さを認めた上で
「現代におけるデッサンの価値」
を私たちの生活の質という観点から考えてみましょう。

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アルフォンス・ミュシャ「婦人の頭部習作」1900頃